鵯越前夜図鐔
無銘 藻柄子

赤銅地竪丸形高彫地透色絵
縦:73.9mm 横:68.5mm
切羽台厚さ:5mm
耳際厚さ:4.5mm
上製落込桐箱入

特別保存刀装具鑑定書(藻柄子)
価格480,000円(消費税込)

 寿永二年(1183年)七月、木曽義仲の軍勢に追われて都落ちした平家は、大宰府で勢力を回復、讃岐国屋島、長門国彦島に拠点を据え、摂津国一の谷に陣を構え都奪回の機会を窺っていた。寿永三年一月のことである。この平家を討ち、彼らに持ち去られた三種の神器を取り戻すことこそ、源範頼と義経ら源軍の重要な使命であった。平家の一の谷の陣は前方に海が広がり、後方には山が聳え、守るに易く、攻めるには難い地であった。「いざ一の谷」源軍は源範頼を大将とする大手五万余騎と、源義経を大将とする搦手一万余騎に分かれ、吉日として選ばれた二月四日、都を立ったのであった。
 義経軍は丹波路をまわって、播磨と丹波の国境の三草山の東、小野原に陣を敷き、まずは三草山の西の口に陣を敷く平家の前線部隊に夜討をかけ、これを総崩れとした。これに対し、平家は歴戦の猛者能登守平教経を総大とし、これに一万余騎の軍勢を付して鵯越の麓を固めさせた。 垂直に聳え立つ断崖は絶対に破られてはならない陣地の要衝であった。
 一方、義経たちは、軍勢を二手に分け、土肥実平七千余騎を一の谷の西の口に向かわせ、自らは敵陣の急所を探し、三千余騎を率いて不案内の西国山中を彷徨っていた。そのとき、武蔵坊弁慶が一人の老人を義経の前に引き出した。この山で猟師として暮らしを立てていた老人に、義経は一の谷の平家本陣に駆け下りて討たんと思うのだが、と問うた。老猟師は、人馬の通れるような道はないが、鹿の道はあると答えた。これを聞いた義経は、鹿の通れる道をどうして馬が通れぬことがあろうか、草深い東国育ちの我らにはちょうど良い馬場である、と攻撃の糸口を得て喜んだ。
 二月六日夜半に熊谷次郎直実と平山武者所季重との先陣争いで戦端が開かれた一の谷の戦は、梶原平三景時、源太景季らの奮戦など、攻防は激しさを増し、戦況の行方は混沌。しかし七日卯の刻に義経部隊が平家の背後の崖を馬で駆け下りて急襲した。世に名高い「鵯越の坂落とし」である。戦の大勢は決し、歌人としても知られた薩摩守忠度、笛の名手平敦盛、それに数々の合戦で活躍した侍大将越中前司盛俊ら主だった武将が戦場の露と消え、総崩れとなった平家軍は一目散に海上へと逃れた。
 この鐔は一の谷前夜、山中で見出した老漁師の話に耳を傾ける義経主従の姿を、上質の赤銅磨地に肉高く彫り描いた作。裏面には、「我が意を得たり」の表情の弁慶を配している。作者は、三国志、源平合戦、歴史上の英傑の栄枯盛衰を題材とした作を得意とした藻柄子宗典とみられる。床机に腰掛けた義経と彼を盛り立てる一人当千の武者たちを前に畏まった老猟師。その口から語られる、源平の命運を左右する貴重な情報ともいえる一言一句に、はっとした様子の義経と主従。「勝利が見えた」まさにその瞬間の緊張感が見事活写された優品となっている。

鵯越前夜図鍔(鐔) 無銘 藻柄子

鵯越前夜図鍔(鐔) 無銘 藻柄子

鵯越前夜図鍔(鐔) 無銘 藻柄子

鵯越前夜図鍔(鐔) 無銘 藻柄子

鵯越前夜図鍔(鐔) 無銘 藻柄子

鵯越前夜図鍔(鐔) 無銘 藻柄子


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