2024年1月13日 6:58:13
Imazu
第十五回 鎌倉時代の薙刀
【薙刀最強?】
薙刀というと、弁慶など専ら僧兵が所持した武器というような印象があります。ところが、古い絵画をみると、僧だけでなく武士も普通に薙刀を用いていることが判ります。
戦場で薙刀を振り回す弁慶のような敵将と対峙したと想像してみてください!
あまり、近寄りたくはないですよね?
太刀と薙刀で一対一で打ち合った場合を考えると、下図のごとくどう見ても薙刀の方が強そうに見えます。
相手を威嚇する効果という点では大薙刀に勝る刀剣類はないといえるでしょう。
【何故少ない? 薙刀の遺例】
それを証するように、鎌倉時代や南北朝時代においては薙刀が非常に好んで使用されていました。
しかし、健全で出来の良い大薙刀の遺例数は太刀と比較しても、その数は圧倒的に少なくなります。
もっともらしい理由としてよく挙げられるのは
実用の武器である薙刀は頻繁に使用され、それが故に残らなかったという説 あるいは
薙刀を後世、短かくし薙刀直しの刀にしたと云う説です。
しかし、薙刀を薙刀直しの刀に作り変えたとする説については大きな疑問があります。
この点については弊社の深海がYOUTUBU動画で詳細な解説を行っていますのでそちらをご参照下さい
(ページ上部リンクご参照ください)。
【長大な薙刀は製作費用も高い!】
薙刀は刃長や茎が長く、身幅も重ねも太刀を大きく上回る迫力ある姿が特長です。このような作品が鎌倉時代や南北朝時代には鍛造されました。
一般的に薙刀一振に使用する玉鋼などの材料費用は同じ刃長の太刀一振の製作費用に比べて当然高額かつその製作には通常の太刀以上に高い技量が必要になります。
現在伝来している大薙刀の遺例はどれも特別注文で鍛造された高級武将用の作品です。
粗製乱造品は別として、このような入念な大薙刀は気軽に一般の武士が注文し得るものではなく、当然大量に作られたとは考えられません。
遺例の少なさは鍛造の困難さ製作費用の問題と密接に関連していると思います。
この点から、時代の上がる健全な薙刀は、頗る貴重であるといえるでしょう。
写真は、各時代の薙刀の縮小サイズを合わせた写真です。
一言に薙刀と言っても様々な形状・長さの薙刀があることが分かります。
因みに、この写真にある薙刀の作者は下記となります 上から
・真忠(鎌倉時代)
・ 清人(南北朝写し)
・法光(室町中期)
・寿命(江戸初期)
・包宗(江戸中期)
一番右の写真は 薙刀 備前國真忠作を一点だけで表示しています。
備前国は、古くから刀工が集まって切磋琢磨し、日本刀の鍛造に必要な玉鋼・鍛錬に必要な燃料の材木そして、材木や重量のある砂鉄や刀剣類を運ぶ水運などに恵まれたため、日本刀の一大産地として、優れた刀剣類が多く鍛えられた場所です。
中でも備前長舩の呼称が良く知られていますが、これは刀工が集まっていた地域の名で、現在の岡山県瀬戸内市長船町、吉井川の辺りに村のような単位で幾つかの流派が点在し、技術力を競い合っていました。これらを総じて長船鍛冶(長船派)と呼んでいます。
【備前の薙刀】
平安時代から鎌倉時代前期までを特に古備前と呼び、
先に紹介した古千手院と同様に時代の上がる独特の風情に特徴を見出すことが出来ます。
鎌倉時代に入ると、一文字派、長船派などと呼び分けられるように、特に刃文において各流派の特徴が顕著になります。
【薙刀 備前國真忠作】
この薙刀は、備前刀工の中でも特に鎌倉時代中頃に発展した一文字派の中でも、比較的時代の上がる作例です。一文字派の中でも福岡一文字派は古く、鎌倉時代中頃に重花丁子と呼ばれる華やかな刃文を生み出し、他国へも影響を及ぼしています。ところが、この薙刀の作風をみると、さらに時代の上がる風情があります。
【蒙古襲来絵詞に描かれた薙刀】
薙刀の物打辺りは身幅が広く反りが深く付いて刃先に張りがあり、棟側を薄く仕立てて切り込んだ際の刀の通り抜けを良くしています。物打辺りの身幅を広くすることで打ち合いにおける頑強さを高め、さらに先端部分を鉤のように鋭く反らせているのは相手を掻き倒す目的があるようです。
薙刀 備前國真忠作などは
まさに蒙古襲来絵詞に描かれているそのままの姿です。
日本刀専門店 銀座長州屋