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私の正体は? ―鑑定刀 第九回【解答】
- 銀座長州屋WEB編集部
- 2024年6月15日
- 読了時間: 4分
【解答】
一振目:[正解]刀 銘 泰龍斎宗寛造之 慶應二年十月日

問題1は泰龍斎宗寛の慶應二年十月日紀の刀でした。
宗寛は本国陸奥白川です。江戸で固山宗次に弟子入りしました。
几帳面な人で、手控え帳を付けており、それが子孫のお家に伝わっており、文政末年から天保初年、12歳の時だったことが研究家伊藤巌先生によって明らかにされています。
幅広で伸びやかな姿です。そして生ぶ茎とくれば、江戸時代後期の姿かもなあと推考します。
匂出来の互の目乱刃で、切れ味が良さそうに見え、師匠もそうだとなると、
固山宗次系統かなあ・・・と。
そして通常は独特の映りが立つとあります。「横目映り」といいますが、これは宗寛の個性です。
刃文は尖りごころの刃が入っているので、どこか備前伝とは異なります。
孫六兼元なんかを念頭に造られたものかも知れませんね。
固山宗次にも、これって和泉守兼定を手本にしたのかなあと思われる作が過去ありました。
やはり切れ味を追求すると、美濃刀も研究対象になったのでしょうね。
茎の銘字が変わっている、というのもヒントです。これは隷書体です。
宗寛は師匠宗次と異なり、隷書体を使っています。
宗寛は刀身彫刻も巧みですが、伊藤先生の説によると、彫刻家に彫を習い(東龍斎清壽)、それで銘字も隷書体を採用したんじゃないかということです。
目釘穴は真円形ではなく、いささか歪です。これも打ち振るった際に柄に緩みがでないようにとの、宗寛の配慮ではないかという説もあります
(詳しくは銀座長州屋チャンネルhttps://www.youtube.com/watch?v=I_DBNEMY9hI 。)
宗寛はとても篤実な人柄だったそうです。古河藩主土井侯に仕え、また、師匠固山宗次のところにも、鍛冶修業という名目で定期的に訪問し、老境の師匠を支え、助けていたようです。
そんな篤実な宗寛は、ある時、土井のお殿様に、「京都へ行って受領しておいで」と金200両を拝領したそうです。
しかし宗寛は最後まで泰龍斎のままですね。どうしてでしょうか。
それはどうやら京都へは行かなかったらしいです。途中で全部、飲んで騒いで使ってしまいました、らしい。
それでしばらく殿様に顔向けできず、自主謹慎していたとか。
これも伊藤先生の『古河市史』の論文に出てきます。
そんな大それたことをしても、殿様は「仕方のないやつじゃ(笑)」と許したんでしょうかねえ。
ちょっと解せないですが(笑)

刀 銘 泰龍斎宗寛造之 慶應二年十月日
二振目:[正解]平造脇差 銘 備州長舩康光 應永廿四年正月日

問題2は備州長舩康光の應永廿四年正月日紀の平造脇差でした。
姿のところで、身幅の割に寸法が延びている、そして棒樋が丸止めとあるのは、大きなヒントです。
この姿は応永備前の典型的な姿なのです。
そして地鉄は杢目が目立つ・・・応永杢かな?
直調の映り(棒映りともいいますね)が現れている・・・やっぱり応永備前ですね。
となると、盛光か、康光か。
どちらかに決めかねますが、康光は直刃に見るべきものが少なくない、といいますので、
康光の作と絞り込めます(あ、盛光に直刃出来の優品がないというのではありませんよ)。
それにしても大事なのは姿です。
こういうやや寸法の延びた短刀や脇差は室町時代の前期、応永頃に流行ったのです。
南北朝時代の動乱が終わって、平和になった室町前期、応永とかいいますね。
確かに平和になり、将軍の権力が安定し、北山文化が栄えます。
が、その実、陰謀もめぐらされたのです。
室町将軍の権力だって、将軍と守護大名たちとの微妙な力関係の上に成り立っているわけです。
京都の将軍、守護大名、そして関東には鎌倉公方とそれを支える守護大名や豪族がいる・・・。
将軍の継嗣問題が絡み、知らないうちに陰謀が・・・。
実際、応永二十三年五月には関東で上杉禅秀の乱が起こっています。
これは関東管領上杉氏と公方足利持氏の争いでしたが、
これには室町将軍足利義持の弟義嗣の陰謀も絡んでいたのです。
こうなると室内でいつ何が起こるかわからない。そして室内には太刀は持ち込めません。
そういう儀礼なのですよ。
だから、身を守るには寸法の延びた短刀や平造脇差が必要だった・・・。
こういう事情を知ると、改めて「あー、綺麗だけど武器なんだよねー」と思いますね。
また、そういういざという時の実戦の武器ゆえに、緊張感のある美しい姿なのだとも言えますよね。

平造脇差 銘 備州長舩康光 應永廿四年正月日
以上です。
いつもと同様、月刊『銀座情報』(令和6年7年号)掲載品からの出題です。
今回も二振、出題してみました。
如何でしょうか?

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